698年の渤海(当時は「震」)建国当初は後突厥汗国の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、突厥第二帝国の第2代黙啜可汗は唐を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は突厥の属国としての地位を甘受することになり、突厥から派遣される吐屯により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。
その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に突厥と断交している。
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734年、突厥は渤海に使者を派遣し、契丹と奚の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年に回紇により突厥は滅亡した。
渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年に唐が渤海に対し契丹及び奚への攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにも関わらず、これを拒否していることからも推測されるものである。
しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。
渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、遼により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。